エッセイ集  

書きたい時に、思ったこと感じたことを書き留めました

(無断転載・無断引用禁止 Copyright (c) 1998 nagayama )


必要以上にリアルな映画 (2006/1/9)

 最近の映画は最新の技術を使ってどんどんリアルになっていますね。見ていると音響や映像の迫力は必要以上ではないかと疑問に思ってしまいます。そして、そこまでリアルにしないとおもしろくないと思っている監督がいて、またそれをおもしろいと思う人が多くいると思うと怖いくらいです。昔の白黒映画は、映像も単純で、音響もシンプルですが、その分自分で想像する場面が多くて今の映画よりよほど見応えがあるような気がします。見ている側の想像力を巧みに使うような映画をもっともっと作ってほしいですね。知らぬ間に、それだけ人間の感性が鈍感になって、想像力も低下しているのでしょうか。映画にしろゲームにしろ、作る側が必要以上にリアルさを求め、それを喜んで受けて見ている人が多くいる社会が心配になってしまいます。


幸せ (2005/3/31)

 身内や自身の突然の病気や事故、金銭的なトラブル、家庭内不和など、一生のうちにはいろんな問題が出てきます。何もなく、平穏無事、幸せに一生過ごせる人は皆無でしょう。他人を見ていると自分だけ不幸に思える場合もありますが、そういう自分も、極端なことを言えば生きているだけでも幸せなのに、際限ない欲が浮かび、日々不満や否定的な感情を持って過ごしがちです。幸せは、生きていさえすれば、今そこにもあり、幸せな人は幸せを見つけるのがうまく、不幸せな人は、幸せな自分に気づかない人なのではないでしょうか。


大樹 (2002/12/21)

 大樹のそばに寄りそうと、心に不思議な安心感と、何か不思議な力をもらえるような気がします。自分たち人間よりはるかに長く大地に根をはって生きているものに畏敬の念を感じます。大きなものといえば、巨大な建造物があります。夜のライトアップに感動したり、あまりの大きさに驚いたりしますが、逆に何か不安感というか、怖さを感じるのは僕だけではないと思います。田舎で、大樹に囲まれて生活していると、いろいろ考えたり、思いついたりするものですが、コンクリートの巨大建造物と、昼夜ない明かりに囲まれて生活していると、慣れてしまいますが、ふと気がつくと、落ち着かない自分がいることに気がつきます。町中にも大樹に触れることができる環境を整備することは、そこに生活する人々に心の安定をもたらすのではないでしょうか。


 (2000/10/7)

 昔の旅は歩く旅でした。現代の旅は車に乗っては渋滞巻き込まれ、電車に乗っては人混みにもまれ、ひたすら目的地を目指します。一見賑やかなようですが、お互いに素通りするだけのとても孤独な旅だと思います。昔の歩く旅ではゆっくり景色を眺め、行き交う人と言葉を交わし、行く先々で人とのふれ合いがあります。道中が旅の多くの部分を占めていたのではないでしょうか。
 僕の夢は、田舎の旧街道を昔の情景を思い浮かべながらゆっくり歩いて旅することです。松尾芭蕉、柳田国男のように・・・。



現代社会に対して思うところ (2000) 

個を大切にする社会
 
一人一人の知識の向上とともに必然的に個を大切にする社会になってきました。昔の村、家庭の良さをいかに残しながら、現代の社会にあった、村、家庭を確立するか。介護の問題、村のつきあいの問題。孤独と煩わしさの矛盾を抱えて、暗中模索の時です。

交通安全
 
一人、一人の教育ももちろん大事ですが、行政レベルでできることとして、交通安全を考えた道づくり、車づくり等、ハード面の整備があると思います。事故の起きやすい交差点、事故の起きやすい曲がり角の整備。先進の技術を使った安全を考えた車づくり。年間一万人の死者を出す交通事故。交通戦争といわれる現代社会の大きな課題だと思います。

助け合いの心
 
身の回りにあるもの、普段の生活、すべてがお互いに助け合って成り立っているものです。お互いに感謝する心を持って人に尽くすことが自分の幸せにもつながっていくのではないでしょうか。

エイズはもとより、クラミジア感染の蔓延
 
エイズがよく話題になりますが、不妊、卵管炎等の原因になる若年者におけるクラミジア感染症が想像を超える勢いで蔓延しています。性病を通して、何が大事なのかもう一度正面からみんなで考え直す必要があるのではないでしょうか。

統一感ある都市づくり、景観づくり
 海外へ旅行に行って恥ずかしくなるのが、日本の統一感のない色使いです。せっかく、すばらしい景色や伝統に恵まれながら、それらを台無しにするような現代の社会の町づくりは悲しいものがあります。たとえ個人でたてる建物、看板であっても、それはまた多くの人の目に付き、何かしら影響を与えることを十分考慮するべきだと思います。


古典 classic (2000/4/7)

 何を勉強したらよいか分からない、何から始めたらよいか分からない時には、まず古典 classicから入るのが良いと思います。音楽もしかり、文学もしかり、書道の世界もしかりです。今、流行っている音楽、小説、今活躍している書家も、100年後には誰にも知られていないのかもしれません。そういったものを一生懸命見たり聞いたりするより、確実なのは、これまで長い年月を多くの人々の目や耳を耐え抜いてきたものを学ぶことです。クラシックも改めて聴いてみるととても良いものです。文学も、海外の名作、日本の名作と呼ばれているものから始めれば間違いないでしょう。人の一生は限られています。上手に時間を使うにはいかに無駄なものを見ない、読まないかと言うことでもあるかと思います。


悩み (1999/6/20)

 兼好法師はあれこれ悩むことが多くなるから子供はいない方がよいといっています。お釈迦様も自分の持ち物はできるだけ少ない方がよい、この世の中にあれこれとらわれない生活ができるようになった時が悟りの境地と言っているのではないでしょうか(あくまで僕の見解ですが・・・。)。
 最初読んだ時は大変感銘を受けました。しかし、いろんな患者さん、いろんな人を見ていると悩みのない人はいないし、この世の中みんな悩みだらけです。まさに悩みに翻弄されています。しかしまた別の考えをすると、それって言うのは逆にとても人間らしい生き方なのかもしれませんね。いろいろ悩み、死ぬまで悩み、気が休まると時がなくても、平凡な人生よりも、良く生きたと言えるのではないでしょうか。
 もちろん、一人暮らしで自由気ままな生活をしている僕が言うのは説得力がありませんけどね。


うわさばなし(沈黙は金、雄弁は銀) (1998)

 今や芸能界などではうわさ話がたえませんね。他人のうわさ話というのはなぜか盛り上がる話題であって、日常の会話の中で、また飲み会の席などでは特に他人のうわさ話に花が咲くものです。
 しかし、本人のいないところでのうわさ話というのは、そこではおもしろくても、後々本人の耳に入り、人間関係に水を差すようなことにもなりかねません。他人のうわさ話はついつい口に出てしまうものですが、そのうち、口が軽いと思われ、その人の信用をなくしかねません。
 言葉は使い方によっては大変大きな力を発揮しますが、なかなかうまく使える時ばかりではありません。沈黙は金、雄弁は銀ということわざがあるように、特にうわさ話に関しては極力注意して控えたいものです。それはまた自分のためでもあるかと思います。

商売について  (1998)

 最初からお金をもうけようとして儲かっている人はなかなかいないと思います。人のために、またみんなにいかにして喜んでもらおうかという素直な気持ちが、人を呼び、お金を呼び、商売を成功に導くのではないでしょうか。

薄味の生活のすすめ (1998)
(大切にしたい小さな事にも感動できる心)

 外食や冷凍のコロッケは食べられたものではありません。衣にコロッケだぞと言わんばかりのコロッケの味がついているのです。健康のためにも薄味が良いと言われますが、日頃から薄味に心がけ、良く噛んで、素材の味を十分楽しみたいものです。
 音楽についても薄味が良いと思います。どういうことかと言いますと、時々ものすごい大きな音量で音楽を流している車を見かけますよね。外へあれだけ響いてくるのだから中はさぞかしな音だろうと思うのですが、低音を強調して、また音量を大きくすればどんどん耳もそれになれてきて、もっと大きな音、もっと強い刺激を求めることになります。
 視覚についてもそうです。道路沿いに掲げられた看板やネオン、少しでも多くの人に注目してもらおうと競争する結果、赤や黄色のきつい色が氾濫しています。重要な道路標識が目立たなくなってしまいます。何か色の使い方にも制限がいるのではないかと思う今日この頃です。一方なぜ白や黒、木の色で統一された昔の町並みがほっとするのかも分かりますよね。
 映画やテレビ番組もそうです。やたらとリアルにしたり、目を覆いたくなる場面が多くあるのも考え直す必要があると思います。
 僕は全て薄味にしよというわけではありません。ただ日頃から薄味の生活に心がけることで、小さな事にも感動できる心が生まれて、より豊かな生活がおくれるのではないでしょうか。


節約について(質素倹約のすすめ) (1998)

 普段からお金を質素、節約することは大切ですね。いくらお金があっても、いつまた無くなるかわかりません。ある時にこそ倹約に心がけるべきではないでしょうか。人は一度贅沢な暮らしをし出すときりがなく、またどんどん贅沢にすることはできても、決して質素にすることは難しいものです。ある時使って、無くなったら我慢すればいいやと思っても、なかなか贅沢な暮らしから質素な生活には戻せないものです。
 ただそういってケチでも人から嫌われます。自分の身の回りの、あまり得にもならないと思われるような小さな節約、倹約からまずはじめて、人に与えるお金は人並みかやや太っ腹くらいでおしまなないのが良いのではないでしょうか。ふだんの小さな質素倹約の心がけが、ふだんの生活をより充実したものにすると思っています。


見えそうで見えない自分の姿  (1998)

 見かけ上、鏡はありのままの自分の姿を映し出しますが、本当の自分の姿というのは自分が一番分かっているようで、実は分かってないところもたくさんあるかと思います。人生とは一生かけて自分探しの旅をするようなものでなのでしょうか。毎朝、鏡に映す自分の顔でさえも、周りの人が普段見ている顔とは違う顔かと思います。
 社会の中での自分の姿が見えていない人ほど、自己中心的な世界に生き、まわりに迷惑をかけたりするものです。常に自分を見失わないように、少しでも本当の自分の姿を理解できるように生きていきたいものです。


困ったときの神頼み 〜感謝の心〜  (1998)

 困ったときの神頼みという言葉がありますが、困ったときは神様仏様にお願いしても、そのことが成就したらお願いしたことなど全て忘れて成功は自分の力だと過信してしまいがちなものです。願い事が叶った時こそ、またお願いしてなくても良いことがあったときには、ご先祖様にありがとうございますと手をあわせたいものです。
 また、彼岸などにお墓参りに行ってあれやこれやといろんなことをお願いしがちですが、いろいろお願いするよりも、心の中で一言、「普段からお守り下さいましてありがとうございます」と感謝の気持ちを述べるだけで良いのではないでしょうか。
 僕は別に、熱心な仏教徒ではありませんが、今の自分があるのはご先祖様のおかげ、いろんな神様のおかげと思い感謝する心は、常に自分が、自分の力だけで生きているのではなく、いろいろな人々、もののおかげという気持ちをも大切にすることにつながるかと思います。

ローマ時代と比べて現代は良くなっているのか。(1998)

 高校の世界史でギリシア、ローマ時代の歴史を学んで、その当時から哲学等の学問や選挙制度等、現代にも通用する大変豊かな文明があったことを知りました。遊びや食事にも大変恵まれていたようです。ただそれは一部の人たちで、その陰には奴隷制度というものがあったことも忘れてはなりません。
 僕はそのころの歴史を学んだ時、今は奴隷制度もなく、みんな平等でなんとすばらしい世の中なのだろうと思ったものですが、海外旅行やテレビ等で少し世界に目を向けてみると豊かな近代文明の恩恵を受けて、飽食の世を渡り歩いているのは世界のごくわずかな人々に過ぎないのだということを感じました。これだけ世界に貧しい人々がいて、餓死する人もいるという状況は、世界的に見ればローマ時代と比べて決して良くなっていると言えないのではないでしょうか。



子供の教育について思うこと4つ  (1998)

1、三歳までの安定した母子関係が性格に影響

 現在教育についていろいろ議論が盛んですが、「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、三歳くらいまでいかに安定した時期を過ごしたのか(安定した母子関係)、どのような環境で過ごしたのかが、その子の一生を大きく左右すると思います。勉学に関してはもうちょっと遅いと思いますが、性格はこのくらいの時期に決まるのではないでしょうか。

2、自分から興味を持つ勉強法、学研ひみつシリーズ

 勉学に関しては与える教育は最小限に、できるだけ自分から興味を持てるものを増やしてやることが大事だと思います。かけ算の九九などはやはり詰め込む教育の代表格で重要なものと思いますが、学問や世の中のことに関して自分から興味を持って小学生の頃から知識を広げることができるものとして漫画による解説書があります。僕たちの世代の医大の同級生と話をしていると、結構、学研のまんがひみつシリーズで育った人が多いことに驚きます。宇宙のひみつ、恐竜のひみつ、地球のひみつ、いろんな本がありました。僕も愛読しました。学校の勉強に直接結びつくものばかりではありませんが、そこから受けた刺激はかなり大きかったと思います。

3、テレビなどのメディアの子供に与える影響

 テレビを見ていると、残酷なシーン、猥褻な表現、汚い言葉が氾濫しています。これらがすべていけないとは思いませんし、こういったものもあって当然、また、完全に排除することは無理で、ある意味必要かとも思います。
 ただ、まだ人格が安定しない子供に不必要に刺激するという意味では、町中など公共の場所で、コンビニしかり、不特定多数の人が見る可能性がある場所、ものでは、一切こうした子供に悪影響がある可能性のあるものを至急、排除する必要があると思います。テレビの影響は、また非常に大きいもので、深夜以外の放送で各テレビ局は慎重に内容を吟味する必要があると思います。

4、想像力を育てる学校の環境とは

 学校は今までハードの面から特別教室、体育館等どんどん整備されてきましたが、ほぼそれらがそろった現在、これからは自然をうまくいかした学校周囲の整備が必要かと思います。幼稚園のころは、その辺の石も、車や戦車に見立て遊んだものです。また、幼稚園の裏山の坂を草の上に段ボールを使って滑ったものです。動物を飼ったり、いろんな植物があったり、起伏ある自然の地形が想像力をたくましくさせるのではないでしょうか。危険だとか、大人から見てきれいにと周囲をコンクリートで均一に舗装、壁をつくってしまったりすると子供にとっては想像力を働かせる余地が無くなってしまいます。いろんな草が生え、いろんな石が転がっている、そういった環境をこれからは大事にすべきだと思います。


林業について  (1998)

(林業は三代、100年の気の長い仕事である。)

 林業は大変、気の長い職業である。100年木をつくるのに祖父が植え、父が管理して、ようやく子の代になって切れるのである。木は50年たった頃からようやく採算が合うようになり、それまではひたすら手入れするだけで赤字である。今20年のスギの木は大根より安い、というより赤字である。50年かかって育てた杉の木でさえも3000円足らずとはなんとも悲しい話である。また300年はもつと言う、せっかく100年かけて育てたスギで家を造っても、今は20年くらいでつくっては壊し、つくっては壊しなので、使ってもらうにももったいない。
 戦後良かった林業も海外から安く入ってくる外材のおかげで、日本材は暴落し、昔は山持ちと言えばおだい様の代名詞であったようだが、現在はその逆である。小耳に挟んだ話だが、孫の結婚式のためにとおじいさんが持っていた山をすべて切ったところ、かえって人件費など経費の方がかかって赤字になり、自殺してしまったという話がある。今の日本の林業はこんな状態なのである。
 戦前の山持ちは山のことをよく理解していたようで、痩せている山の尾根や頂上には雑木を残し、またそれらが落とした葉が下に植えた杉の肥やしになる。動物はそこの木の実を食べ、まさに人間と自然の共存ができていたわけである。
 戦後に山が良くなったことで、街の人など山のことをよく知らない人も山を持つようになり、ただ植えればよいのかと、すべて木を切り、植えてしまい、さらに植えっぱなしでほっておくので、植えられた杉は込み合って中は暗くなり下草も生えず、雨が降れば気の遠くなるような年月を掛けてできた肥えた土は流れ、まさに表面は緑だが中は砂漠である。保水能力は衰え、山は崩れ、本当に悲惨なものである。よく、杉が立ち枯れて酸性雨だと騒ぐが、見るに家の周りで枯れている杉の木は痩せたところ、岩盤の上など根もろくにはれないような無理なところに植えた杉の木である。
 植林されたスギに囲まれるこの渋川の自然の中で、オートバイの箱を造る工場で使う木は、遠く東南アジア、ロシアの方から海を渡り、緑豊かなこの渋川に大きなトレーラーに積んで運んでくるのである。本当にどうしようもないが、何ともしがたい矛盾を感じるものです。


書道について・・書とは、字をうまく書く方法は・・ (1998)
間違えないでください。習字と書道は全く異なるものです。

 書道部部長をやったりして感じたのですが、「書道部に入りませんか。」と聞くと、「字がきれいにかけるといいですね。」「字をきれいに書くにはどうしたらいいのでしょうか。」というような返事が返ってきます。
 ほぼ十人中十人が書道と、習字の区別が付いていないと言うのは、この、すばらしい書道芸術を持つ日本としては悲しいことであると思います。習字と書道は同じものと勘違いしています。また、「子供の頃、書道をやっていて〜段なんですが・・・。」というのをよく聞きますが、これほど当てにならないものはなく、また、その人たちも悲しいことに習字も書道も同じものと勘違いし、余計に重症な事もよくあります。
 書道は奥深く、もちろん僕が簡単に論ずることのできるものではありませんが、分かる範囲で、また今考えていることを言いますと、習字というのはただ字をきれいに書く技術であって、書道というのは自己表現の場であると思います。そして、書道の練習というのは、古人の作品にふれ、それを感動のままに書くこと(臨書)で、その時代を、またその作者の心を旅するものかと思います。そういった中で、自己表現の技術を習得し、また必要あれば自然ときれいな字も書けるようになるものかと思います。こんな楽しい、奥深い書道を、堅苦しい形にのみこだわった習字としてとらえるだけで終わってしまっているのは、日本の文化にとって何とも嘆かわしいことかと思います。義務教育でのお習字の弊害、また、お習字の域を脱していない個人塾があることの弊害かと思います。
 日本人のほぼ全員が学校で習字を、多くの人が個人塾に通う中で、書道を理解している人はほんの一握りで、多くの人は技術だけのお習字と勘違いしつまらないものと思っているのです。生涯学習、子供のお稽古という形で習う人が多く、見た目は良くても、日本の書道は危機的です。その上、高校からは芸術科目がだんだん姿を消して受験科目に変わっているのです。
 大勢の人に見せる事務的な書類、またデーターベース化や保存の必要な書類は、ワープロうちで、友人に宛てる手紙などは書き手の様々な要素の加わる筆で、できればすった墨などを使って、うまい下手を気にせず書きたいものです。日本語を書くにはこれらの道具を使って縦書きに書くのが最も自然だと思います。そうすれば自然と字体はくずれ、つながり、均整のとれた字になるのではないでしょうか。今の日本語は横書きで、硬筆ですから、アルファベットや数字なら良いのですが、日本語にとっては酷な状況です。字は、くずれるにもきれいにくずれることができなくて字はゆがみ、つながろうとすれば変な方向へ飛んでいく、これでは日本語がうまくかけないのは当たり前ではないでしょうか。


旅について  (1998)

 本当によい旅には自分、現地の人、そして一緒に旅する人の三つの要素が大事だと思う。まず旅を素直に感じることのできる自分の心があり、そして、現地の人との会話の中に旅先の人情にふれ、旅をよりよいものにし、さらに一緒に旅する良い仲間との出会いがより旅を味わい深いものにする。3年生時のカナダ旅行で、みやげ屋さんの日本人のおばさんに聞いた話が今も忘れられない。「新婚旅行、結婚後もいろいろなところへ行ったけれど、学生時代の旅行が一番良かったね。」と・・・。


暗闇  (1998)

 今の町の生活は24時間街灯、コンビニ等で光が消えることはありません。僕の住んでいる周りは夜になれば本当にうちの光以外なにもなく真っ暗です。どこからともなく、昼間は聞かないような鳥、フクロウ、いろいろな動物の声が聞こえ、とても不安になります。町の中ではあまり感じることのできない、自然の偉大さ、怖さを感じるものです。そういった闇に、昔の人々は自然にお化け、幽霊を見たのでしょう。それらは人の自然に対する畏敬の念の現れなのではないでしょうか。24時間明るい生活では自然を思いやることはできても、本当の意味での自然を感じることは難しいのではないでしょうか。


趣味について  (1998)
(何事もその心を知っておもしろくなるものです。)

 僕にはいくつかの趣味がありますが、趣味というのはその心を知ってはじめておもしろくなるものと思います。
 園芸、特に剪定に関して言えば、剪定というのは一見、木をいじめているようにも見えますが、小さな庭に、また植木鉢に大きくなることを許されないで植えられた木を、いかに山に育つ大樹のような枝振りにしてやるかというのがその心です。自然に生えたのではなく、人が木を植えた時点で、その木は人の手によっていかに自然の姿に近づけてやるのか、つまり手入れが必要となるのです。
 手品に関して言えば、ただ人をだますのではなく、子供から大人、お年寄りまでみんなが楽しめる芸術として、いかに心地よく楽しませるか、常にそのあたりを考えながら自分本位の手品でなく、見てくれるお客さんのことを常に考えて手品を演じたいものです。
 剣道に関して言えば、単なるスポーツで、勝ち負けを競うのではなく、面や小手を打つ前の、一足一刀の間合いでの竹刀と竹刀の戦いがおもしろいのです。そこで相手の心読みあうのです。そして、きれいな剣道、正しい剣道の打ち、姿勢というのはなかなか身に付かないものなのですが、他人の注意を素直に受け入れ、少しずつ直していく、それは自己の向上、人間形成という面からも大変意味深いものと思います。
 書道に関して言えば、単に字をきれいに書くというのではなく、書はその書いた人のその時の生を表しており、機械が書いたようにきれいな字というのはなにも味気ないもので寂しいものです。書道教育というのは字をきれいに書くということでは単に窮屈なつまらないものになってしまうのですが、中国や日本の名作と呼ばれる古人の書いた古典を臨書して、そこに歴史を感じ、心を読み、そしてその中から自己表現の方法を学ぶという方法をとれば大変おもしろいものになります。
 それぞれの趣味においてその心を知ると言うことはやはりまず最初は書にしろ、剣道にしろ、その技術を習得することは大事ですが、技術だけに偏らず常にその心というものを考えながら学びたいものです。そうすれば、そのおもしろさもまし、生活においても、またその人に人間形成という面に関しても大きく貢献するものと思います。


  (1998)

 よく人を恋することができる人は仕事も良くできると思います。ただ、それをどのように昇華するかが問題ですよね。それを目標に、仕事を、また自分をうまく磨いていくことって大事ではないでしょうか。
 話は変わりますが、昔、はやった歌を久しぶりに聴くと、その時のいろんな思い出がよみがえり、いくつかの歌は片思いを思い出したりするのは僕だけではないですよね。
 80才になってもドキドキするような恋をすることのできるおじいさん、おばあさんって素敵だと思います。そうなるには一つ一つの恋を大事にすることでしょうか。


良いホームページとは  (1998)

 写真や絵をふんだんに取り入れたものがよいのですが、それは光ファイバー網で整備された次世代のホームページのあり方であって、とりあえず今は快適に見られることを優先した方がよいと思います。また、階層をどんどん深くしていくとわかりにくくなる一方なので、僕は最高で3つくらいを目安にしています。他にも、本文中にリンクを張りすぎるとすぐによそへ行ってしまい、どこまでがそのホームページなのか分からなくなったりもするので、このホームページでは極力リンクを減らしてあります。また、くだらない絵があちらこちらに張ってあるとなにが必要で不必要なのか時間を無駄にするだけですので、余分なものは入れずわかりやすいものにしたいと思います。まとめると、

1.リンクは最低限に抑える。
2.あまり意味のない画像を入れない。
3.内容は必要なものに絞る。

 こんなところでしょうか。
 インターネット上の情報の9割方がゴミであるという話を聞きますが、このホームページもそのゴミのうちに入らないよう努力しているつもりです。物でなくても世界にゴミをばらまくようなことはしたくありませんよね。


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