大平右近次郎(おいだいらおこのじろう)の伝説  

  静岡県 引佐郡 引佐町 渋川


むかし。

引佐のどんと奥の里に、オコノ次郎というたいそう弓のじょうずなおさむらいがおった。

秋ともなれば、ひらひら落ちる木の葉を的にして、弓のけいこをしておった。

オコノ次郎が、風にまう木の葉をねらって弓をひけば小さな葉っぱは真ん中を射ぬかれて落ちてくる。それは見事な腕まえだった。

山へはいり鳥やけものをねらえば必ずしとめて逃がしたことがない。たくさんのえものがあるときには村のしゅうに分けてやる欲のない、気のいい若ざむらいであった。

ところが、村のしゅうの中に、みょうなことを言い出す男があった。

「あのおさむらいは殿様からにらまれているそうな。何でも敵方に通じているということじゃ。」

「そんな、ばかな。」

「あんな気のええおさむらいがのう。」

村のしゅうはなにやらわけがわからん。

そんなある日のこと。

年の瀬もおしせまり、雪がちらつく日だった。

お城のさむらいしゅうがしか狩りにやってきた。

オコノ次郎はその案内役にたっていた。

オコノ次郎だけ赤いずきんをかぶっていた。雪山のなかでどこからでも赤いずきんが見える。

山おくへはいりこんで、オコノ次郎が谷間へ出たとき、ほかのさむらいたちは待っていたとばかり弓に矢をつがえた。

「ほおーっ」とほらがいがなった。

オコノ次郎は、なにごとかとふりむいた。

そこへ四方八方から、びゅっ、びゅっと矢がとんできた。

赤いずきんを目じるしにさむらいたちは射かけたのだった。

あっという間のできことだった。

いくつもの矢をうけてオコノ次郎はぱたりとその場にたおれた。

すると、さむらいたちはすーっと水がひくように山を去っていった。

そのできごとは村じゅうにすぐ伝わった。

村人たちはおどろいた。

「うわさはほんとうだったのかなあ。」

「ええひとじゃったのに。」

「あんな弓の名人をむざむざころすなんて」と、いいあってオコノ次郎をねんごろに葬った。

それから何年かして、その墓のあたりに、ときおり赤いずきんをかぶった蛇がちょろちょろと姿を見せるようになったという。


谷間に眠る伝説の墓

昭和54年6月24日静岡新聞「民話の里・36」より

(2005年3月31日 静岡新聞社編集局調査部 仲野様より掲載許可を頂いています)

 引佐町渋川大平に昔から言い伝えられるオコノ次郎「伝説の墓」を求めて、北遠の山にはいったのは、六月中旬である。六年前、大平の深い谷間にオコノ次郎の墓を見たという伊藤信次さん(引佐町渋川寺野)が案内役を引き受けてくれた。

 引佐町の最北端、ひよんどり祭りで有名な寺の部落をさらに北に四キロ、急な山道をぐんぐん進むと、オコノ次郎が殺された大平にたどり着く。道は山の中腹を縫うように走っている。「あそこに、オコノ次郎の墓があるはずです。」見れば山道の真下、百メートルもある深い谷間で、雑草がうっそりと茂り、道もなければ、オコノ次郎の墓も見えない。

 伊藤さんはまず谷を下る道を探し始めた。しかし谷へ通じる道はない。雑草をかき分け、急な斜面を下った。オコノ次郎の墓を探すこと小一時間、突然「ありました。ありました。」伊藤さんが手を振り、小躍りして喜んでいる。

 オコノ次郎の墓は思ったより小さかった。高さ五十センチ、自然石の墓で、何も書かれていない。小さな茶わんが一つ、近くにころがっている。昔墓の五十メートルほど上を大平村から秋葉山へ抜ける秋葉街道が走っていた。オコノ次郎の墓は人目につかないように、村人が街道から離れた谷に墓を建て祭ったのだろうか。

 オコノ次郎はなぜ殺されたのか。享保十三年(1728年)に書かれた古文書に大平右近次郎の事件が詳しく書き残されている。

 オコノ次郎は、右近次郎といい、右近がなまってオコノになった。井伊家(引佐町井伊谷に領地があった。)の第十六代井伊直満と弟の直隆は今川義元に美濃の断絶するのを恐れ、直満の子、直親(幼名 亀之丞)を天文14年(1545年)、9歳の時に、家臣の今村藤七郎正実が付き添って信州、市田郷の松源寺に身を隠すことになった。渋川から鳳来町へ抜ける大平部落の坂田峠で弓の名人で今川の家来、右近地頭が直親に弓を入り殺そうとしたが失敗に終わる。

 時は流れ12年後の弘治元年、井伊直親は立派な青年になって井伊谷に戻った。直親は自分に弓を射った男を捜すため、渋川地区の十五歳から六十歳までの男全員を集め、シカ狩りをする。「この中で一番弓の上手なのはだれだ。」と直親が言うと、右近次郎が「私だ。」と名乗り出た。直親は「この男だ。」と直感した。右近次郎の案内で大平の山に入り「先年、殺そうとしたのはお前だな。」とその場で右近次郎は打ち首にされる。(一説には弓で殺される)驚いた村人に直親は「騒いではならぬ。お前たちに罪なし」といったという。村人は人目のつかない山の中に右近次郎の墓をつくった。弘治二年の時である。直親はその後今川氏に殺される。右近次郎の事件から七年後のことである。


 僕の知っている限りでは右近次郎の墓は3つある。一つは上で紹介された谷間の墓。そしてもう一つは殺されたと思われる場所に、もう一つは右近次郎が住んでいたと思われる場所にある。殺されたと思われる場所の墓は昭和50年代、県道の拡張の際に取られてしまったようである。現在右近次郎の子孫はいない。右近次郎が住んでいたと思われる屋敷には明治の頃から他の人が住んでいるが、そこの家では今でもねんごろに祭っている。僕も谷間の墓を見に行ったことがあるが、茶わんと、みかんが供えてあり、今でも地元のおじいさんおばあさんは参りに行くようである。


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